【あの人も愛した 京ぎをん浜作】
京都にある数々の名料理店の中でも、京ぎをん浜作は特別な位置にある。当代森川裕之氏で3代目だが、数百年の老舗が軒を連ねる古都では格別に古いわけではない。しかし、名匠3代による93年の歩みには政治の中心が東京に移った後もわが国の文化芸術の都であり続けた20世紀の京都の姿が刻み込まれている。連載では浜作に集う文人、画家、映画人から政財界の大立者たちのエピソードを紹介したい。食を通して知る京文化の記録である。
初代森川栄は1896(明治29)年に富山の冶金学者の家に生まれた。7歳で遠縁の大阪堂島の米問屋に養子に出されたが、そこに子供ができたため、今度は9歳で大阪一の魚屋「魚福」に奉公することになった。
栄は12歳で料理人を志し、北浜の名人・樽本作次郎、通称「浜作」に入門した。ここで頭角をあらわし、各料亭から引っ張りだこの板前となる。当時の大料亭は料理人を持たず、料理人が所属する「部屋」から派遣してもらっていた。各料亭は評判を取るため、腕のいい料理人に大金を積んで契約した。折しも、日露戦争戦勝にわく大大阪の時代。栄は勤め人の10倍もの給金を得ていた。
やがて独立した栄は師匠から「浜作」の名をもらい祇園に店を構えた。1927年9月1日のことだ。「割烹」の「割」は包丁方、「烹」は煮炊き・味付けの煮方を意味するが、包丁方だった栄はカウンターの客を相手にオープンキッチンで料理する方式を創案。つまり浜作こそ板前割烹の発明者なのだ。座敷で庭を愛でながらという「形」ではなく、純粋に料理だけを提供する合理性と包丁さばきの美技を見せるパフォーマンス性。栄は繁栄の極みにあった大大阪の味を、その勢いそのままに京都で魅せた。
若い頃から名人の誉れ高かった栄を、大倉財閥の2代目、ホテル王大倉喜七郎男爵や鉄道王の根津嘉一郎、後に朝日麦酒(現在のアサヒビール)を創設する山本為三郎ら財界の巨人がひいきとした。3人はそれぞれ美術コレクター、茶人、民藝運動の後援者として知られる文化人でもあった。「有馬記念」に名を残す有馬頼寧伯爵も常連となり菊池寛を連れてきた。
浜作贔屓は演劇界にも波及し、劇壇の覇者初代中村鴈治郎をはじめ、歌舞伎俳優たちのお気に入りの場所にもなった。新しいもの好きの各界の貴紳が飛びついて、栄の味と人柄に惚れ込んで繁盛し、浜作は各界の大物が集う店となっていった。
■大野裕之(おおの・ひろゆき) 脚本家、演出家。1974年、大阪府生まれ。京都大学在学中に劇団「とっても便利」を旗揚げ。日本チャップリン協会会長。脚本・プロデュースを担当した映画に『太秦ライムライト』(第18回ファンタジア国際映画祭最優秀作品賞)、『葬式の名人』。主著に『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』(岩波書店)など。
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April 27, 2020 at 06:00PM
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カウンターの客を相手にオープンキッチンで料理する方式を創案 浜作こそ「板前割烹」の発明者:イザ! - iza(イザ!)
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