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Sunday, June 19, 2022

母の生き様から歴史が見えた「スープとイデオロギー」公開中のヤン ヨンヒ監督にインタビュー - 朝日ファミリーデジタル

「母は今年1月に92歳で亡くなりましたが、この映画のポスターやチラシを毎日見ているので、大阪にオモニがまだいるような気がします」と話したヤン ヨンヒ監督=5月11日、大阪市内で

大阪出身のコリアン2世、ヤン ヨンヒ監督の最新ドキュメンタリー映画「スープとイデオロギー」(118分)が、6月11日からシネマート心斎橋、第七芸術劇場、京都シネマで公開されている(元町映画館でも8月27日<土>から公開)。

父を主人公に描いた「ディア・ピョンヤン」(2005年、ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞受賞作)、帰国事業で北朝鮮に渡った兄たちの娘の一人の成長を描いた「愛しきソナ」(2009年)に続く家族のドキュメンタリーだ。

今回の主人公は母。今につながる歴史のうねりの中で生きてきた母の姿を再発見していくヤン監督自身と、本作のエグゼクティブ・プロデューサーで、監督の夫・荒井カオルさんもスクリーンに登場する。家族というパーソナルな人間関係の中に顔を出す国や社会の在り方。私たちは決してそれらと無縁で生きてはいない。学生時代に目を見開かれた気がした「個人的なことは政治的なこと」という言葉を思い出させる映画だった。東京から来阪したヤン監督に話を聞いた。

【ヤン ヨンヒ監督インタビュー】

――認知症になったお母さんとの付き合い方が印象的でした。

2017年11月に済州島から研究所の人たちが来て、自宅で母の証言を取った後、年末からガーンと悪くなりました。それ以前は「お父ちゃんが生きてた時な」という話もいっぱいして、夫が死んだことも兄たちがいないこともわかっていましたが、子どもみたいになって、父や息子たちを探し始めた。「最近いつ会った?」と聞くと「昨日会ったよ」と。

母は家族の写真をとても大切に飾っていた

母は自分が一番幸せだった1960年代後半に戻ったみたいです。私に「ヨンヒ、どこへ行った?」と言い始めたので、「これは誰?」と聞くと「ヨンヒやんか」と言うけれど、母の頭の中では夫も若いし、息子たちは学生でまだ北朝鮮に行っていない。身の回りの世話をしてくれる目の前のヨンヒとは別に、ちっちゃいヨンヒが兄たちと遊んでいる。

最初は戸惑いましたが、「何言うてんの、お母ちゃん。お父ちゃん死んだやろ」と否定すると、それがストレスになって最悪の場合、小さい脳梗塞が起こると考えた方がいいですと言われたことで、病気だと割り切って話を合わせることができるようになりました。

言ったこともすぐに忘れるので、「お父ちゃん、どこ行った?」と聞かれて「兵庫」と答えた数時間後に同じことを聞かれたら「東京」って言ってもいいんです。同じことでも違ったことでもニコニコしながら言ってあげるのが大事。ともかく叱らない、否定しないのを鉄則にしましたけれど、私と夫のあの対応の仕方は、ケアマネジャーさんにほめられました。

――監督が「済州4・3事件(4・3)」を知ったのはいつですか?

1997年ごろアメリカにいた時です。英語の先生が「この子は私の教え子で、コリアンジャパニーズ。両親は韓国出身」と歴史家の夫さんに紹介してくれた時に「済州島です」と言ったら「ああ、虐殺があったとこやな」と。知らなかったので「えっ?」と思いました。そこからちょっと調べ始めました。

アニメーションの原画は監督がほれ込んだ、こしだミカさん。「済州島に行ってもらって、海の色も火山島の岩の色も、4・3の博物館も見てもらいました。アニメの編集もあるので長期戦を覚悟して編集は韓国で。理由は単純。ご飯が安くておいしいから。スープだけ注文すれば、ご飯も野菜も全部出てきますから」。結局、編集には2年かかったという

父は済州島出身ですが1942年に15歳で日本に渡ってきて、48年に4・3が起きた時はいませんでした。その後も北を選んで済州島とは無縁な人生を選んだので「アボジの知り合いに4・3で犠牲になった人はいないの?」と聞いても「遠い親戚とか幼馴染が犠牲になったかもな」と話す程度でした。

母は日本生まれだと知っていたので「オモニは日本生まれだから知らんねんな?」と言うと「ふん」。「済州島に行ったことあるの?」と聞いたら「ない」と言っていたのに、そのうち「ちょっとだけある」とあやふやなことばかり言っていました。「なんやのん、それ」と言うと「済州島のことは聞かんとき。ええ思い出がない。韓国は残酷や」と。

韓国を生理的に毛嫌いしていて、K-POPも韓流グッズの店なども嫌うので「なんでそんなイヤやの?」と聞いても「韓国は残酷や。もう聞かんとき。イヤやねん」。その反動のように、北に対しては、息子も孫も行って北の現状もわかっているのに、えこひいきのような見方をする人でした。

――お母さんとは仲良し親子なのかと思っていました。

すごく仲のいい夫婦を親に持ったのはありがたかったけれど、常に父を立てて、父の機嫌が大事でという母のようにはなりたくないと思っていました。同性として私にはしんどい部分もあったし、盲目的に北を信じて、韓国をすごく毛嫌いする母に不信感もあり、全体主義に従順なところも、すごく嫌でした。

2018年春、1回限りの韓国旅行許可証が発行され、母は監督とカオルさんと一緒に70年ぶりに済州島を訪れた

うちの家族は在日の矛盾や日本と半島の矛盾が凝縮された縮図のような家族なので、ドキュメンタリーの対象として面白いと判断して映画を作ってきました。モチベーションの根底には、家族の政治的な選択や政治的な思想、価値観に対する疑問があります。

母自身が私の撮った映画を見たり、周りの人から「娘さんがああやって残すから、お父さんお母さんの歴史もわかりますね」と言われたりしたらしく「映画に残すのもええもんやな。オモニの映画も作るか?」と言うようになりました。

――お母さんは4・3を体験されていたのですね。

ええ。2009年に父が亡くなった後、「こういう話も映画にするか?」と言い出しました。

「済州島もな、ちょっとおってん。4・3の時にもおってん」と言い出した。

「何の話やねん、それ!」

詳しく理由を聞くと「終戦の年に空襲があった。日本人は日本の田舎に疎開するけれど、在日は田舎に身内がいないから、大阪の在日は済州島出身の人が多いから、当時あったシャトルフェリーに乗って空襲を逃れるために済州島に疎開して何年か住んでいた」と言うんです。「アボジが死んだから言うけどな、婚約者がおった」

10代までの写真がない母を描くのにはクレイ人形と手描きの原画を使った

その人は医者で、ケガ人の治療をするために山へ行き、殺された。山に行った人とかかわっていた人は無条件で殺される状況だったので、とにかくすぐに逃げなさいと言われ、たまたま日本にいた祖母がブローカーにお金を払ってくれたので、母は弟を連れて密航船に乗ることができた……。

そういう話を聞いて私は腰を抜かすぐらいびっくりしました。

済州島は貧しい島だけど昔から家に鍵をかけない、泥棒がいない共同体的な島として有名でした。学生時代の母は日本名を使って日本の学校に通っていましたけれど、民族差別もきつかった。済州島に来て、婚約者もできて、ずっとここで暮らそうと思い始めていたらしいんです。

ところが戦争が終わって、朝鮮半島の南半分で選挙をして国を樹立するとなった時に、いろいろプロセスがあった後で4・3が起こった。ちょっとでも「統一を望む」とか、韓国、南半分の政権に対して疑問視する奴は許さないと、アメリカがバックにいて韓国の警察と軍が脅しを実行した事件です。

済州島の4・3平和公園を車いすの母と訪れた

武装蜂起しようとした島民の虐殺に軍を派遣する時、済州島に一番近い南の全羅道や慶尚南道、麗水などの軍は上からの命令を拒否しました。「済州島民を殺しになんか行けません」と。そしたらまたそこを弾圧していった。4・3が済州島で終わらずに、韓国全土での弾圧につながっていきます。

結局は対共産主義。アメリカの反共主義がそのまま投影されています。なにかちょっと反政府的なことをすると「アカ」とレッテルを貼って拷問した。これは結局「アカ」を利用してきたと思うんです。4・3も結局、共産主義が何かわからない島民を虐殺して、とにかく「歯向かうな」と知らしめた。

4・3が起きた1948年には8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国されています。こういうことが建国の歴史に直結しているんです。

韓国の民主化は、よく映画でも描かれますが、決して1980年代から始まった訳ではありません。建国直後から民主主義を求める市民の闘争は凄まじく、初代大統領も追放したほどです。

やっと植民地から解放された国のことを、結局は大国が決めています。分割統治もそう。自分の国のことは混乱しても自国で決めさせればいいと思うのですが、「大国の俺らが決めまっせ」と言わずに「北から共産主義が来るから僕らが守ってあげます」というポーズをとるわけで。最近になってアメリカの責任を問わなければという意見も出るようになりましたが、恐ろしいと思いますね。

――なんだかロシアのウクライナ侵攻の話に重なって聞こえます。

そう。今もそれが続いているわけですよ。アメリカはアメリカでそうだし、ロシア、旧ソ連も。一つのイデオロギーを正しいとして、それに反するイデオロギーは許さんとなると。一党独裁もそうだし、対共産主義もそうだし。

――お母さんの作るサムゲタンのスープ、夫の荒井カオルさんが作るようになりましたね。

青森ニンニク40個をひね鶏の腹に詰めて5時間炊く滋味深い母のスープ。「母は東京で暮らす私によく『元気出して頑張りなさい』と冷蔵の宅配便でスープを送ってくれました。体もですが、気力が戻るスープなんです」

ケンカした後も、長男が北朝鮮で死んだという知らせを受けた時も、散々泣いた後で母は「あのスープ、作ろうか。私らは生きていかなあかんから」と言っていました。

夫が母のスープを作るとは思っていませんでしたが、大阪で母に作るために東京で何回か練習しています。母と全く同じ鍋を使って、鶴橋の店からひね鶏を取り寄せて5時間炊いて。でも火加減なのか、なかなかオモニの味になりません。イマイチやなと言いながら何回も練習していました。

――ステキな夫さんですね。

長野出身の荒井の母は早くに離婚してシングルマザーで彼と兄を育てました。そのせいか、女の人の苦労に敬意を持つ人だと最近になって思います。

この映画の始まりは2016年に荒井が母に会いに行くと言ってからなんです。

4・3の母の証言は2010年ごろから撮っていましたが、それだけではイマイチやなと思っていました。ドキュメンタリーの作り手はよく「〇〇問題(issue)で映画を作る」ということがありますが、私はissueのドキュメンタリーはテレビで見たい。私が映画館で見たいのは「人」なんです。人を見つめると歴史が見えたり社会問題が見えたりします。

昔から、父も母も私の結婚相手に「日本人はダメ」「アメリカ人はダメ」と言っていました。頭固いなあと思っていましたが、4・3のことを知ってから「そりゃあ、済州島の人は日本もアメリカもあかんて言うわなあ」と。理論でも理屈でもなく、アウシュビッツで家族を殺された人は、ドイツがいくら誠意をもって謝罪をしても、やはりどこかで「生理的に受け入れられない」「イヤや」という気持ちは残るでしょう。人間ってそういうもんやと思うんです。

だから、あれだけ日本人はダメと言っていた家に、日本人男性が行くというのはコメディーみたいで面白いなと思って、荒井に「それ、撮っていい? どんな反応するかわからないし、めっちゃ反対するかもしれないけど」と言ったらOKでした。

うれしい時も悲しい時も母はスープを作った

すると母は荒井に会って鶏を炊くと言い出した。めっちゃ歓迎されたのです。スープを食べて荒井が帰った後で「お母ちゃん、えらい話が違うやん。昔はあんなに反対していたやんか」と言うと「ホンマは関係ないんや。好きな人とおったらええねん。そうはいかん事情があったやんか」と言いました。あの絵が撮れてから、新しい家族が増えるという話が入れば、長編にできるかもしれないと思い始めました。

結局「スープとイデオロギー」というタイトルは「思想が違うからって何で殺すんや。ご飯食べながら議論すればいいやろ?」ということなんです。

現実には個人のそういう声は勝てません。殺されちゃうし。一つの国のシステムの中では個々人の声は消されてしまいます。現実ではそうでも私は、映画の中ではスープが勝たなければいけないと思っているんです。

――ありがとうございました。

「スープとイデオロギー」公式サイトはコチラ https://soupandideology.jp/

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